(主として「日本の歴史 09 頼朝の天下草創」よりメモ。同巻は山本幸司氏が分担執筆 講談社01年刊 同氏は46年生、慶応大大学院経済史終了。2001年現在、静岡文化芸術大教授)
1180年8月頼朝は伊豆で挙兵、石橋山の合戦で敗れたものの房総半島で態勢を建て直し、10月には鎌倉に入り根拠地と定め実質的に東国の覇者となった。1185年には守護・地頭が全国に置かれ、1192年には朝廷から征夷大将軍に任命されている。(いつの時点を鎌倉幕府の始期と捉えるかについては諸説あり。)
挙兵した年の10月、平惟盛を大将とする頼朝追討の官軍が派遣されたが、惟盛は富士川で対峙したままたいした合戦もなしに京都へ逃げ帰った。この時頼朝は一旦追撃を命じたが、東国がまだ平定されるに至っていないので直ちに京都を目指すことには慎重たるべしとの陣営の大勢に従い断念した。
都では清盛の屈服により幽閉を解かれた後白河法皇が1181年以降、院宣を武器に院政を再開した。この頃頼朝は朝廷に対し、もともと朝廷への反逆の意思はなく朝敵である平氏を討つのことのみが望みであるとの意を伝えている。
1183年西海に逃れた安徳に代わり、後白河の差配で後鳥羽天皇が即位、義仲の入京、同年10月には後白河の宣旨により頼朝に東国の行政権が認められた(後白河は、奥羽に対しては認めていないし、頼朝の望んだ征夷大将軍の地位は拒否しておりこの時点での頼朝認知は限定的)。
1185年3月の壇ノ浦の戦を経て頼朝・義経の関係が悪化し、10月には頼朝が派遣した土佐房昌俊らによる京都の義経居館襲撃が行われるが成功しなかった。義経は、頼朝追討の院宣を後白河に出させて畿内の兵を集めようとしたが畿内は反応せず、11月義経は少数の手勢のみで摂津から脱出した。頼朝は院宣を出した後白河の失策に乗じて強気に転じ、諸国に地頭を設置すること及び頼朝追討の院宣を出すことに反対した藤原兼実を摂関とすることなどを後白河に呑ませた。
1185年暮、頼朝が義経追討のため京都に派遣した北条時政と千騎の兵に対しては、追討の院宣が与えられたが、義経の行方は杳として知れず都にはさまざまな噂が流れた。各地に反頼朝勢力が残っているこの頃の頼朝にとっては、義経が奥州に健在であった藤原秀衡と合体すれば、東国を背後から脅かされることになりえた。義経一行は1187年2月頃には秀衡のもとに赴いたようである。
しかし義経が頼りとした秀衡は1187年10月に死去、1188年2月には義経の奥州滞在が鎌倉でも知られるところとなり、鎌倉からの圧力が秀衡の嫡男泰衡に加えられた。1189年3月にようやく泰衡より、義経逮捕の要請に従う旨の連絡が頼朝に届いたが、泰衡を信用しない頼朝は朝廷に泰衡追討の院宣を求めた。朝廷はこれを遷延し、この間頼朝からの圧力に耐えかねた泰衡は衣川館に義経を討ち、6月には美酒に浸した義経の首を頼朝のもとに届けた。
義経が討たれたとの報は5月末には朝廷に届き、朝廷はもはや泰衡追討の必要は無くなったと考えたが、2月段階で泰衡追討の動員をかけていた頼朝は朝廷の制止を聞かず、7月に奥州出兵を強行した。9月には平泉は灰燼に帰し泰衡の首が頼朝のもとに届けられ戦は終わった。
頼朝と後白河のしのぎを削る政治的攻防の末、強引に見切り発車した頼朝に一旦は軍配が上がったが、後白河は奥州軍事支配の正統性を裏付ける征夷大将軍の称号を死ぬまで頼朝に拒み通した。
1190年11月、頼朝は京都入りを果たした。頼朝は協力者藤原兼実に、法皇が天下を支配し天皇はまるで皇太子のようだが、いずれ法皇が亡くなれば後鳥羽の親政となり政治は正道に戻るだろうと述べたとされる。法皇は病で1192年に没した。後白河は死の直前、保元の乱で滅ぼした崇徳上皇や西海に没した安徳天皇の怨霊におびえ、病平癒の祈りのため十列もの参拝を日吉大社に献じたりした。
頼朝は、後白河から得た西国での地頭支配と平氏没領の相当部分を一旦返納、西国を慰撫しつつ奥羽制圧を優先した。後白河なきあとは西国支配の強化に乗り出し、守護・地頭の再設置や新規設置、御家人制の整備などを西国中心に行なった。
1195年、頼朝は政子と長女大姫を連れて東大寺の大仏供養に向った。大姫を後鳥羽天皇の後宮に入れ、生まれる皇子を関東の主に擁立することを考えていたとされる。この大姫は入内を見ずに二年後に亡くなった。1196年には宮廷内に政変が起き兼実は失脚、「愚管抄」を著した弟の慈円も天台座主を辞任した。後任の関白には藤原基通がなった。
東国武士団には「都は都、武士としては東国支配のみで十分」との考えが伝統的に強かった。これを克服し幕府の全国政権化を図ることが頼朝の課題であった。頼朝は梶原景時を重用しつつ全国化を試みたが道半ばで1999年落馬がもとで53歳で没した。後継の頼家は将軍権力の集権化に失敗し、結果的には東国支配の確立に集中したといえる。政子や北条氏などにも東国地域政権モデルへの根強い執着があった。全国政権化は承久の乱と蒙古襲来を待つことになる。
18歳で頼朝の後を継いだ頼家は、狩と蹴鞠に興じ将軍としては不適格であり、政子の命令で出家したあと伊豆の修善寺で謀殺されたとされる。弟の千幡(せんまん 実朝)が1203年に将軍職についた。この間、梶原景時追放が行われた。景時以下一族は頼朝の一周忌明けの1200年1月に京都に向かったのでその途次、鎌倉側に駿河で討ち取られた。景時には、京都で甲斐源氏の武田有義と組んで九州支配の院宣を得る計画があったとされる。
源氏最期の将軍となる実朝が就任した翌年1204年は謀反や謀略が多発した。実朝も歌や蹴鞠の京文化に傾き武芸を軽んじたとされるが、自分で決定したことは頑固に守り通す癖があった。和田義盛の子が関与したとされる頼家の子の将軍職擁立事件の処理にあたっても、実朝は義盛を不必要に刺激してしまい、和田一族との合戦(1213年)にまで発展した。また朝廷と連携してみずからの官位を高め幕府を全国政権化する考えもあったとされる。このため朝廷への税の納入を承諾し関東武士団の反感をかった面があった。
1219年正月、実朝は右大臣昇進の儀式のため鶴岡八幡宮に赴き境内で頼家の遺子公暁に討たれた。実朝の将軍職を安泰にしたいとの政子の計らいで、公暁は近江園城寺で仏道に入っていたが、やはり政子の命で1917年に鎌倉に戻っている。病弱の実朝には子が生まれなかったため、実朝に何かあった際には公暁を復飾させ幕府を継がせるとの考えがこの頃の政子に生じていた可能性がある。この暗殺事件の背後に執権北条時政(政子の父)と若き後妻の牧ノ方の陰謀があったとされる。陰謀を知った政子は地元鎌倉の三浦氏を抱きこみクーデタを決行、父時政を伊豆に追放した。時政は出家し10年の余生の後、78歳で没した。
実朝の死後、実質的に将軍の地位にあったのは政子であった。政子にとっての最大の関心は北条氏一族の生存と権力維持であった。政子は一貫して北条という家の利害を代表し、それにつながる限りにおいて源家の利害のためにも戦ったといえる。
1192年、後白河が世を去り後鳥羽の治世が始まった。上皇は多芸多才、詩歌管弦、蹴鞠、双六を好み、荒馬を乗りこなし弓矢の達人で、相撲や水泳にも優れていたという。「延喜・天暦の治」にならうべしとしてすべて復古調であったが政策面では見るべきものはなく、もっぱら朝廷の直轄武力の充実に力が注がれた。やがてこれが原因で承久の乱の悲劇へとつながっていく。院直属の武士としてはそれまでは北面の武士のみであったが、「西面(さいめん)の武士」が新設され、殿上人ですら弓矢の稽古に明け暮れる風潮が支配的だった。
寺院に対する強硬姿勢も目立った。1206年には叡山の数百人の堂衆たちが武器を持って集まっているとの報告があったため、院宣により武士達が園城寺や末寺である小倉の称妙寺に追討のため向った。その際、堂衆の仲間であった近江源氏の八島冠者が家来を引き連れ観音寺あたりに立て篭もったので、これに立ち向った検非違使と合戦になり、捕らえられた堂衆ら三十人ほどが比良山の麓で殺されるという事件もあった。
1209年には後鳥羽が日吉社に参詣し境内で競馬(くらべうま)が行われたが、見物の群衆を追い払おうとした後鳥羽の従者と叡山の大衆(僧兵)との間で喧嘩となり、僧たちは大宮門楼にのぼり気勢をあげた。天台座主がなだめに入ったが効き目がなく後鳥羽は已む無く引き上げ、騒いだ僧達は後日流罪になった。
1213年には清水寺との争いで延暦寺の宗徒百余人が長楽寺に集まり、清水寺を焼き払おうとしているというので、西面の武士が派遣され双方にけが人が出た。
このような寺社に対する後鳥羽の強硬姿勢には特段の政策目的があったとは認められず、後日、承久の乱に際して寺社が朝廷に協力しなかったことにつながった。
後鳥羽は、直属の武力を強化することがいずれ幕府との衝突につながることを承知していたと思われる。実朝暗殺に伴い政子は、後鳥羽の皇子の一人を幕府に迎えたいと工作したが、後鳥羽は結局応じず藤原兼通のひ孫(後の頼経)を送った。後鳥羽自身のちに「この日本国を二つに分けるようなことができようか」と語っており、皇族の派遣はこの恐れがあると見ていたのである。1230年頼経は、頼家の娘で実朝の猶子となっていた竹御所(たけのごしょ)と婚儀を行い、いわば源家の養子格で政権の継承を行う。
実朝の死(1219年)とともに源家の血筋が断絶したので幕府への求心力は弱まったと見た後鳥羽は、1221年倒幕宣旨を発し統幕に踏み切った。きっかけは後鳥羽が寵妾の白拍子亀菊に与えた摂津の荘園の地頭が亀菊の言うことを聞かないので、当該荘園の地頭を廃止するよう院宣で幕府に申し入れたことに始まる。北条義時は、戦功として頼朝が御家人に与えた地頭職を召し上げることは出来ないとして峻拒し、朝廷との関係が悪化したとされる。しかしこの一件は挙兵まで2年もあり、何か別のより大きな理由があったのかもしれない。
1221年4月、後鳥羽は伏見の城南寺で流鏑馬を行い、これに各地の武士を集め挙兵の意図を内々伝えた。「承久記」によれば、近江源氏の佐々木広綱を含め近畿14カ国の武士千七百騎が呼ばれたとされる。
院側は手始めに5月、北条義時の縁者で武勇で聞こえた京都守護の伊賀光季を誘い出し討ち取ろうとしたが、宮廷内で幕府寄りであった佐々木広綱や西園寺公経が事前に光季に警戒するよう伝えていたことから光季は誘いに乗ってこず、結局院側は、光季の宿所に兵800〜1000騎を差し向けた。手勢30人の光季はこれを迎え撃ち激しい戦闘の末、宿所に火を放って自害した。
変を知った鎌倉側では急遽協議が行われたが、この場で政子は決然とした一場の演説を行い、頼朝の幕府草創以来の恩義を御家人達に説き聞かせ、「非義」の綸旨によって追討を受けることの不当さを指摘し結束を迫った。大勢は一気に決し直ちに義時邸での軍議となった。足柄・箱根の関を固めて京方の来攻を待つべしとする案と、一刻も早く京へ軍を差し向けるべきだとの大江広元の案が対立したが、政子は大江広元の積極策を採用した。
遠征軍は東海・東山・北陸の三手に別れ総勢19万で京に進発した。京方は雲霞の如き軍勢の報に周章狼狽、「上下万人 皆伏し目」だったという。京方は濃尾三川地域で破れ、最終防衛線として勢多、宇治、淀などを固めたが敗色濃厚で、天皇、上皇、親王たちは叡山を頼って坂本(京側の西坂本か)まで行ったが、叡山の兵力だけでは防ぎ難いという叡山側の反応で事実上、追い返された。
6月、勢多へ向った北条時房の軍は、橋板を外して盾を並べた京方(叡山の僧兵を含む)と対峙、宇治では足利義氏・三浦泰村らの軍が渡河を試みるが増水した宇治川に兵が流され兵糧も減り苦戦していた。駆けつけた泰時も一旦は敗北を覚悟する程であったが、川の深浅を計った上で佐々木信綱・中山重継らがようやく渡河に成功したことにより形成は一変、決戦は鎌倉方の勝利に終わった。
後鳥羽は入京した北条泰時に使いをつかわして、倒幕は自分の意思ではなく謀臣たちの企みであると訴えたが、隠岐に流され、土御門は土佐、順徳は佐渡へと配流、幼い仲哀は廃帝となった。因みに乱の一因を作ったとされる後鳥羽の寵妾亀菊は後鳥羽の死まで隠岐で近侍したとつたえられる。
執権北条義時のこの時の素早い対応は剛毅果断、冷静沈着であったとして武士団の評価を高め、北条の執権政治が確立して行く契機となった。義時が得宗という法名を持っていたことから爾後、この一族を得宗家と呼ぶようになった。得宗家は義時のあとは泰時、時頼、時宗と恵まれた人材に代々引き継がれ、質実剛健の鎌倉武士を象徴した。
佐々木秀義とその息子達の武功により、近江の守護職は秀義ー定綱ー広綱と受け継がれ承久の乱を迎えた。他の近畿の多くの守護同様、広綱も一族を率いて後鳥羽側に付いたので乱後斬罪に処せられた。乱前、広綱は近江に加え石見・隠岐・長門の守護を兼任しており、叔父経高は淡路・阿波の、また別の叔父義清は出雲の守護で七カ国を支配していたが、近江と隠岐の二カ国に減らされた。当主広綱の子の勢多伽も乱後捉えられ、広綱の弟で幕府側に付いた信綱により斬首された。その際信綱は、こうなるのも兄広綱が信綱に「口惜しく当ったからだ」と述べており、同族の間での対立が高じていたものとみられる。
信綱は1231年、後堀川天皇の中宮お産の祈祷料として三万五千疋を献上した功により、一年任期の近江の守に任ぜられたほか一時は幕府の評定衆もつとめ辣腕振りを発揮し、近江守護としての基盤を固めている。ところがなぜか信綱はその後、高野山に突如遁世してしまった。背後に家督相続の問題があったらしく、この後は四人の息子達が近江各地に割拠し互いに牽制しあうこととなる。
朝廷の権威の失墜、相次ぐ飢饉や天候異変は、京社会の崩壊と混乱をもたらした。大極殿の正門に通じる朱雀大路での耕作を禁ずる命令が出されているほどである。強盗の横行・山僧の横暴・貴族たちの奢侈と腐敗などが広まり、この模様は歌人藤原定家の日記「名月記」に克明に記されている。
貸し金の返済を迫る日吉社の高利貸を営む悪法師と、これを取り締まる六波羅探題武士とがある日、争いになり僧が打ち殺された。これを腹いせに叡山の僧兵団が合戦の構えを示し、六波羅の責任者を処分しなければ日吉祭をとり止めると朝廷を脅し、これに屈した朝廷は六波羅関係者を配流にするという事件も起きている。比叡山内でも無動寺と東塔南谷の門徒の間で些細なことから合戦が生じている。1028年には幕府の命令で僧侶の武装が禁じられ悪僧は逮捕して鎌倉に送られた。
旧暦六月に武蔵・美濃に雪が降り、11月に麦が実り、12月にセミやコウロギが鳴くという異常気象で、凶作で米価も高騰した。こうした中で1224年執権北条義時が亡くなり嫡子泰時が42歳で後を継いだ。「吾妻鏡」などが伝えるところでは、泰時は謹厳実直で奢ることなく謙虚な人柄であった。執権引継ぎに際しては伊賀氏・三浦氏などに政権奪取の陰謀があったが、泰時の伯母にあたる政子の的確な動きで難無きを得た。1225年には政子や大江広元など幕府草創の人たちが相次いで亡くなった。
泰時の業績として1225年の評定衆の設置(訴訟処理機関)、1232年の御成敗式目(裁判条規)の公布がある。承久の乱を経て幕府による西国の支配が進み、東国政権から全国政権への脱皮が進むにつれ、より客観公正な訴訟処理が求められたことが背景にある。
1242年、執権泰時が亡くなり孫の経時が後を継ぐが幕府権力は再び不安定化する。1246年になって病の経時が命を永らえる見込みが無くなったため弟の時頼が執権職についた。旬日を経ず経時が没すると、前将軍(頼経)と北条氏との間に潜在していた対立が一気に火を噴き鎌倉は混乱した。頼経は古巣の京都に追放されて一段落したかにみえたが、頼経に近侍した三浦光村はこの処理振りに不満で1247年、三浦一族の乱(宝治合戦)を鎌倉で起こす。乱は制圧され経時以来の将軍側近勢力と北条家(得宗家)勢力の対立に決着がつけられた。
時頼は北条の宿病ともいうべき権力争いの渦中で流血をいとわず果断に対処した傑物であった。冷酷な面も目立つが政治家としての志は高く、北条の得宗「専制」政治を確立したといえる。時頼には謡曲「鉢の木」で知られた廻国伝説があり、30歳の若さで隠居出家して後、諸国を巡歴して歩き御家人の生活や庶民の日常を調べ政務に役立てようとしたと伝えられている。
近江では、佐々木信綱の四人の息子の代に大きな画期を迎えた。それぞれが近江各地に割拠し幕府と特殊な結びつきを持つことになった。長男重綱は坂田郡大原荘(現 伊吹町・山東町)に住み着き大原氏を名乗った。次男の高信は湖西の高島郡高島荘(現 新旭・安曇川・高島の各町)に移って高島氏を称した。犬上郡甲良荘を本拠とした四男氏信は京都の四条京極高辻にも居館を持ったことから京極氏を名乗った。惣領を継いだ三男の泰綱は、近江守護として京都の六角東洞院に宿所を構えたので六角氏と呼ばれ、現在の守山あたりに根拠地をおいた。
三男の惣領家以外の三家は、承久の乱にこりた幕府が京都や近畿一帯を支配するために置いた「在京人」に名を連ね、事あるときは六波羅探題の軍事指揮下に入ることになったので、中世を通じて六角氏は同族の三家によって睨みを利かされ発展を阻まれ続けることになる。
(1)法然
新仏教の代表としてまず登場したのが浄土宗の法然であった。比叡山では源空と称し西塔黒谷に移って法然房と号した。その後南都にて諸宗を学び、念仏のみが救済をもたらすとの教理に達した。最も影響を受けたのは源信の「往生要集」であった。源信の説く念仏は、阿弥陀仏と極楽浄土の有様を努力して心に思い浮かべるという「観想念仏」といわれるものであり、修行を要するので一般の者には難しい教えであった。法然は「南無阿弥陀仏」の名号を唱えるだけで極楽に行けると中国の善導が説いた称名念仏の教えに進み、1175年叡山を降りて東山吉水に居を構え布教に乗り出した。
叡山や興福寺からは法然の布教禁止を求める圧力が後鳥羽上皇のもとに寄せられ、法然の弟子と上皇の女官のスキャンダルもあって法然は讃岐に流された。
法然の弟子は、高級貴族、武士(熊谷直実など)、山伏、強盗など出身階層が多彩であった。鎌倉幕府は特に積極的に専修念仏を奨励したわけではないが、北条政子宛の法然の手紙にみられるように旧仏教に左右されやすい朝廷よりは好意的であった。
(2)親鸞
9歳で出家して叡山に入るが下級の僧に過ぎなかったらしく詳しいことはわからない。俗界における実家は下級貴族だったとされ、僧としての栄達の可能性もなく性の煩悶も加わり、妻を持った在家のままで信仰生活を送る道を模索する。1201年、東山に法然を訪ね専修念仏に帰依した。親鸞の一生の伴侶となるのは法然の下で同門の恵心尼であった。法然以下が流罪とされた際、親鸞は越後に還俗して配流された。許された後も親鸞は越後に残り、1214年には上野を経て常陸に移り住み、近隣各地に門徒集団を生み出した。
親鸞によればすべての人間は煩悩をもった凡夫であるが、阿弥陀仏への信心が定まれば極楽往生が約されるとし、念仏は救済に至る手段ですらなく救済を保証された者の歓喜の現われであるとされた。
(3)栄西・道元
両者とも叡山から迫害を受け、栄西は鎌倉、道元は主として越前で新仏教を広めた。
(4)日蓮
1221年、安房国に生まれた。16歳の頃剃髪し郷里の天台清澄寺、鎌倉、叡山、園城寺、高野山と諸寺を巡った。法華経こそが真の教えであり「(南無)妙法蓮華経」さえ称えれば仏になれるとの確信に達した。激しい反禅宗・反浄土教であったので各宗派から反発を招いた。天変地異の多発した1150年代に鎌倉で辻説法を始め、やがて御家人層を中心とする武士達も帰依していった。1160年「立正安国論」を著わし外敵の侵攻を予言し、この書を時の執権北条時頼に提出した。念仏宗教側は日蓮の辻説法が幕府法に触れると訴え、幕府は1161年日蓮以下を伊豆伊東に配流した。2年後許されて布教を続けるが、1168年蒙古より服属を迫る国書が到来し日蓮や信者達は自派の教えの正しさに確信を深めた。
1171年再び佐渡に流され、1174年もともと処分に消極的だった時宗の決断によって赦され鎌倉に戻った。諸宗の反発は相変わらず激しく、鎌倉での布教を諦めた日蓮は甲斐の身延山に本拠を定めるが1182年療養のため下山し武蔵で没した。
(5)その他
その他鎌倉期の仏教界の重要人物としては、真言律宗の叡尊(西大寺を再興)と忍性(鎌倉の極楽寺開基)、時宗の一遍(遊行僧)、慈円(天台座主)、重源(大仏再建)、貞慶(法相宗)、明恵(華厳宗)などがいる。(了)