(1)開山(以下(4)までは「滋賀の歴史」より)
最澄は滋賀郡古市郷の人で三津首(みつのおびと)広野といい、渡来系の末裔とされる。奈良時代の末、三津首浄足(きよたり)が戸主の家に生まれる。戸主は正八位下の官人、父百枝(ももえ)は熱心な仏教徒だった。783年(延暦二)、18歳で東大寺で得度、近江国分寺の欠員補充で赴任し出身地に戻る。
ほどなく国分寺を出て比叡山に草庵を結ぶ。貴族社会と密接に結びついて南都六宗と称する既成仏教は都市仏教として世俗化しており、これへの疑問から山岳仏教を開く決意が最澄にはあったものと考えられる。聖武天皇と結びついた南都仏教は国家統治のための政治理念として利用され世俗化するに至っていた。僧界と俗界両方を極めた道鏡の太政大臣禅師への昇進はその極端な帰結であった。
比叡山には山岳信仰の聖地として古くから民間修行僧が入山していた。南都仏教に反感を持つ人も少なくなかったので、山中で修行に励む最澄の姿は新鮮に映ったであろう。内供奉十禅師という国家護持の僧職についていた最澄は、新時代の開拓者たる桓武天皇と相知るようになる。
既に40歳近くになっていた最澄は804年,第16次遣唐使の一員として入唐、空海と別れ長安には寄らず天台山に直行する。帰国した翌年(806), 朝廷は南都六宗以外としては初めての公認を天台宗に与えた。ただ、戒を授け僧を生み出す戒壇を持たないままの出発であったので、東大寺の優位は続いた。
独自の戒壇設立を最澄は朝廷に働きかけたが、最大の保護者である桓武は死去し空海と親しい嵯峨天皇が即位したことや南都が強く反対したことなどから、882年最澄の死去するまでには実現しなかった。最澄が死去して七日目にようやく設立の勅許が下り、寺名も比叡山寺から延暦寺に改められた。
(2)円仁・円珍
南都寺院にならぶほどに寺容を整え教勢を拡大するのは、円仁・円珍であった。最大の課題は天台宗の密教化であった。空海の真言宗はいち早く密教を取り入れておりその秘法は平安貴族の志向に一致したので、教勢は拡大中であった。天台宗もこれにならうことになる。
円仁は831年、最後の遣唐使に加わって入唐し、空海も学んだ青龍寺で密教を修行、帰国後、密教を取り入れた天台宗は飛躍的に発展した。この教勢の拡大にさらに拍車をかけたのが円珍である。853年、唐の商船に乗って入唐し六年後に帰国、皇族・貴族たちの信者も増えライバル真言宗の勢いを超えるまでになった。
円仁は横川を開いたが、円珍は衰微していた三井寺(御井寺)を園城寺と改め天台別院としている。教勢は近江一円を中心に拡大し、近江はあたかも天台王国であるかの様相を示したという。円仁による横川の開山は、その後の天台の発展にとり重要であった。東塔・西塔の世俗化を嫌った多くの優秀な僧が横川で修行し世に出て行ったからである。
(3)良源と横川の隆盛
横川は831年の円仁の入籠に始まるが、後年さらに発展させたのが叡山中興の祖といわれる慈恵大師良源であった。良源は近江国浅井の生まれで、935年興福寺の法会で南都と北嶺の非公式の論議が行われた際、興福寺の僧と対論して名声を上げた。この縁で藤原忠平の知遇を得、更に師輔(もろすけ)にも認められ摂関家の帰依を得た。
良源は963年にも(村上天皇の時)、宮中で追善供養として盛んになっていた法華八講の行事において大活躍した。選抜された天台と南都の僧各10人が入れ替わり法華経についての問答を五日間にわたり行ない、後世「応和の宗論」とよばれる。法相宗が諸宗の長者であることを不満とした良源が、諸宗の深浅を決したいとして根回しし開催に至ったものであるが、勝敗はつかなかったとされる。
良源は、時の権力者である藤原師輔の協力を得て、荒れていた横川の復興に乗り出した。師輔の息子を横川入山させるための画策にも成功し、多くの荘園も獲得して経済的基盤も固めていった。55歳で第十八代座主に就任し、直後の大火で大半の堂塔を失うが、復興にも手腕を発揮し旧来以上の寺容を整えた。
これによって比叡山の貴族化がもたらされたが、良源は歯止めもかけようとした。密教化により教勢は伸びたが世俗化も進んでいたため、良源は最澄の原点に戻る努力を払った。たとえば天台教理を内外の典籍にわたって広く勉学することを学僧に奨励し,優秀な僧には名誉となる地位を設けたりした。そのせいもあって良源の弟子で四哲といわれる尋禅・源信・覚運・覚超という名僧が出た。
良源は985年正月三日に74歳で没したが、その日にちなみ元三(がんさん)大師ともいわれる。彼の住んだ定心房(四季講堂)には良源の画がまつられ御影堂として信仰を集めた。民間においては角大師・豆大師などの名で厄除け大師として現在まで信仰されている。
(4)源信
良源の死後、再度、天台の世俗化が進んだが、これを引き戻したのが良源の弟子である恵心僧都 源信(942〜1017)であった。源信は「続本朝往生伝」で、一条天皇期の天下の一物として学徳第一の僧侶に挙げられた。大和の当麻郷に生まれ若くして良源の門に入った。974年5月、宮中清涼殿で行われた季御読経(きのみどきょう)で33歳の源信は東大寺の僧との問答に臨んだが、源信の論議は称賛を博し貴族たちの間に広くその存在を認められた。
978年頃、書写山に性空(しょうくう)を訪ねている。性空は深山に苦行修行する持経聖として有名であり、当時、花山法皇や文人貴族の多くが書写山を訪れている。文人貴族が参加した念仏結社である勧学会(かんがくえ)とも源信は交わったらしい。こうした中で源信自身に浄土教への関心が芽生え、横川を中心に浄土信仰を深めた。周囲には法皇始め多くの信者が集まり、源信の研究思索の成果は「往生要集」となり、海を越えて宋にまでその存在が知られた。博多を訪れる宋商人を通じて中国仏教界との学問的交流を積極的に行っている。
源信は宮中や道長邸などへの出入りは極力辞退し横川に籠もった。道長は「往生要集」の写本を作るよう書道三蹟の一人である藤原行成に依頼しており、後の無量寿院の建立につながっていく。源信は横川で、童子たちが菩薩衆に美しく扮し音楽や念仏にあわせて華台院の阿弥陀像へ人々を導くという儀式を始めており、来迎の行事を絵画化でなく劇化したりの独創性を発揮した。(今日でも当麻寺や泉涌寺で、練供養・・ねりくよう・・として行われている。) 華台院の丈六阿弥陀は、仏師康尚(こうじょう)が作ったものであり、定朝にいたる仏像彫刻にも多大の影響を及ぼした。
地位や栄誉とは無縁の晩年を横川で送り、源氏物語の宇治十帖には、宇治川に身を投げた浮舟を救い祈る「横川の僧都」として登場するのである。
(以下は、講談社 01年刊 「日本の歴史 06」大津 透 分担執筆をもとにメモ。 筆者は、1960年生、東大大学院博士課程終了後、山梨大、東大の助教授、「律令国家支配構造の研究」、「古代の天皇制」などの著作あり)
(1)延喜・天暦の治
「延喜・天暦の治」とか「延喜・天暦の聖代」と後世、賞賛される10c初めの醍醐天皇と10c中葉の村上天皇の治世は、摂政・関白が置かれず天皇親政の形をとっていたので、戦前の皇国史観の学者達にはとりわけ高く評価された。
聖代とされる理由のひとつは、この時代、学問文芸が隆盛を極めたことにある。和歌を例に取れば、905年(延喜五)には「古今和歌集」、951年(天暦五)には「後撰和歌集」が編纂されており、一条天皇代の「拾遺和歌集」とあわせて「三代集」と称される。10c以降の宮廷文化の始まりを画したといえる。
(2)藤原道隆と中宮定子
村上天皇が死去すると藤原実頼が関白に任ぜられ、以後、後三条天皇が即位するまでの約一世紀はほぼ一貫して摂関が置かれたので、この時期を摂関政治の時代と呼ぶ。
990年正月、一条天皇は11歳で元服し、関白となった藤原道隆の娘定子が15歳で中宮となり, 異例に若いカップルが誕生した(律令法では、中宮は太皇太后・皇太后・皇后の総称であるが、平安時代は皇后を中宮とよんでいた)。道隆は中関白(なかのかんぱく)といい、その一家を中関白家という。
道隆は一家の子弟の官位を恣意的に引き上げ、次男伊周(これちか)も先任の叔父に当る権大納言の道長を追い抜く勢いであった。中関白家は得意の絶頂にあり、この時の定子の後宮と中関白家の繁栄を描いたのが、定子に仕えた女房清少納言の「枕草子」である。
995年、道隆はその年の自分の死に先立ち一条天皇に、後任として次男伊周に関白職を継がせるよう要請した。しかし伊周は天皇に反論したり、些事で事を荒立てたりで天皇や周囲の覚えは良くなかった。やがて伊周は自滅し大宰府に左遷されてしまう。これをうけて右大臣道長は996年左大臣に転じ朝廷第一の座を確定した。中宮定子は、身内の伊周が中宮御所に立て篭もり配流を拒んだ事件などの醜聞もあって出家したが、一条天皇の寵愛は消えず尼のまま参内、996年に内親王を、999年には親王をと出産していく。
(3)道長と中宮彰子
999年には道長の娘 彰子が女房を40人も従えて絢爛たる雰囲気で入内した。定子は翌年再び召し出されたが、年末の内親王出産に際し25歳の若さで悲劇的に亡くなった。彰子はこの年の2月すでに中宮に立后されていた。この時点では紫式部はまだ彰子の女房として出仕していないようであるが、定子・彰子を中心とする女房達のサロンが王朝女流文学のクライマックスの舞台であった。(桐壺とか藤壺は、天皇が妻を内裏内に迎えるために設けた殿舎の名前)
道長は藤原兼家(一条天皇の摂政)と摂津の受領の娘、時姫の五男である。時姫が産んだ道隆・道兼・道長・冷泉女御超子・円融女御詮子は、いずれもこの時代の政治史の中核を形成した。道長は左大臣源雅信の娘、倫子と結婚した。雅信は将来の后にと育ててきた倫子だけに道長に与えるのに反対であったが、倫子の母が加茂の祭で道長を見かけ、この男はただ者ではないと感じ夫を説き伏せたといわれる。
(4)この世をば....
倫子の産んだ頼道・教道は後に道長の後任として摂関になり、彰子・妍子・威子・嬉子はいずれも順に一条・三条・後一条・後朱雀の諸天皇に配された。中宮彰子は、道長が倫子と40年過ごした土御門第で道長の外孫敦成(後一条天皇)・敦良(後朱雀天皇)を産んだ。
以下は「紫式部日記」の有名な冒頭部分で、彰子が敦成出産を控えて土御門第に退出し、女房として仕える紫式部もこれに付き随っていた(1008年)。安産祈願の読経の声と寝殿の池に流れ込む水の音が入り混じる初秋の美しい情景を描いている。
「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむ方なくをかし。池のわたりの木ずゑども、遣水(やりみず)のほとりの叢(くさむら)、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。」
1018年、後一条天皇の中宮に三女威子がなりその儀が土御門第で行われた。「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば」と道長が酒に酔って詠んだのはこの時である。ついで同年、土御門第へ後一条天皇と三后そろっての行啓があった。池の上で龍頭鷁(げき)首の船が楽を奏し、天皇と東宮は共に馬場殿にて競馬(くらべうま)を見る。三后は東の泉殿にて道長とのご対面があった。道長は感激の極みで「言語に尽くし難し、未曾有のことなり」と御堂関白記に記している。
(1)藤原公任(きんとう)
政治面では藤原道長が栄華を極めたが、文化面では藤原公任が頂点を極め、宮廷社会の尊敬・崇拝を一身に集めていた。清少納言も紫式部も公任には一目置いていた。
公任の才能を示す説話で有名なのは、「三舟の才」の故事である。「大鏡」が伝えるのは、ある時道長が大井川での舟遊びをして、作文(さくもん 漢詩)の舟・管弦の舟・和歌の舟をつくり、その道に堪能な人を乗せて競演させた。公任はいずれにも堪能だったのでどの舟に乗るか注目を集め、結局和歌の舟に乗り見事な和歌を詠んだというものである。あとで公任は作文の舟に乗ればもっと名声が上がったのにと後悔したとの話も伝わっている。
公任は966年、頼忠の長男に生まれ小野宮流(注)の直系であった。父頼忠は大臣の位に18年いて、円融・花山の二代にわたり関白太政大臣をつとめ、祖父実頼は冷泉天皇の摂政太政大臣であった名門である。(注:摂関の儀礼体系を作り上げた藤原忠平には二人の子があり、実頼は小野宮流、師輔は九條流という形で引継ぎ摂関家の二つの儀礼流派が成立していった)
公任は小野宮流の直系としての自負もあり、有職故実や宮廷政治史の知識は抜群であり、これらを取りまとめた「北山(ほくざん)抄」を編集した。これは、「西宮記」「江家(ごうけ)次第」と並び三大儀式書とされる。
(2)公任と和歌
公任の才芸のうちもっとも有名なのは和歌である。多くの歌論書を著し、三十六歌仙を選んだのも公任であった。「三舟の才」の場面で詠んだとされる歌は次の通りであり、公任はイメージの鮮やかな平明な歌を好んだように思われる。
朝まだき嵐の山の寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき
百人一首にも採られた秀作で「た」と「な」の繰り返しが流麗な調べをもたらしているのが次の一首である。
瀧の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ
彰子が入内する際に宮中への持ち物として作られた屏風には、道長に再三頼まれて作った次の歌が載せられている。紫は皇室、藤は藤原氏をさしている。
紫の雲とぞ見ゆる藤の花 いかなる宿のしるしなるらむ
「心姿相具」が作歌の理想であると公任は述べ、平明な具象・余情・声調を重視した。一条天皇の時代に作られた「拾遺和歌集」は花山院が撰んだとされ、「古今和歌集」「後撰和歌集」とともに三代集として高く評価されるが、公任が選んだ私撰集をすべて取り込み増補する形で出来上がっているので、実際は両者の合作というべきものである。花山天皇は芸術にすぐれ、こよなく和歌を愛し、東宮・天皇時代には周辺に文人が集まり、公任もその一人であった。
(3)清少納言や紫式部
この時代に和歌は晴れの行事の場での行事歌という性格を強めると共に、貴族社会に歌壇が拡大したので日常的な社交の手段としても根付いていった。枕草子102段には、公任から懐紙に「すこし春ある心ちこそすれ」と下の句が送られてきたので、清少納言は公任にいい加減な返事はできないと思いつつ「空寒み花にまがへてちる雪に」と上の句を返し、相手の評価ぶりを気にしていることが記されている。清少納言はまた、藤原行成からの歌の返しに次の有名な歌を詠んで相手をやりこめている。
夜をこめて鳥のそらねは はかるとも 世にあふさかの関はゆるさじ
前者は、「白氏文集」の一節「三時雲冷ややかにして多く雪を飛ばし、二月山寒くして少しく春あり」の翻案に近いものであり、後者は戦国時代の孟嘗君の故事(鶏鳴をまねさせて函谷関の関を開けさせて無事を得た)を踏まえたものである。
公任は漢詩にもすぐれ「和漢朗詠集」を撰している。彼が収録した白居易の詩は、「平家物語」「徒然草」など後世の作品にも影響した。
林間に酒を暖めて紅葉を焼(た)く 石上に詩を題(てい)して緑苔を掃ふ
この時代の「源氏物語」「枕草子」などの女流仮名文学がなぜ世界史的な水準に達しえたか、やはり白氏文集や史記に代表される中国文化への深い理解がこの時代の文化的創作活動の下敷きにあったといえよう。式部は主人の中宮彰子に白氏文集を講じたほどに抜群の学識があり、父の藤原為時が一流の文人・学者であったことも大きい。為時が息子に漢籍を教えていると、横で聞いていた妹の紫式部の方がよく覚えるので、男の子でなかったのは不幸だと残念がったという。
為時はすでに一条朝にかけて文人として名声高き存在であったが、淡路国守への発令を不満として出した奏状に「苦学の寒夜、紅涙 襟をうるほす 除目の後朝 蒼天 眼(まなこ)に在り」の秀句があり道長が感動して三日後に大国である越前守に変更したという話が知られている。
(1)仏教の世俗化
日本古代の仏教の流れは、奈良時代の国家仏教 -> 平安初期の密教 -> 摂関院政期の浄土教というのが教科書的理解であり、天台浄土教から鎌倉新仏教が生まれていく。これ自体は誤りではないが、実際は平安後期では国家仏教・密教・浄土教が並行して存在した。
宮中での仏教儀式が重要になり、仏教も天皇を中心とする秩序に一層組み込まれていったといえる。宮中御斎会(ごさいえ)などの国家的法会で国家に奉仕することにより僧侶は出世できるというシステムが9c後半に作られるに至る。
(2)道長と仏教
摂関期の貴族の仏教信仰は、「往生要集」に代表される浄土教に人気があった。ただし、この時代に最も尊重されたお経は浄土三部経ではなく法華経であった(「枕の草子」にも「経は法花経さらなり」とある)。道長邸では毎年五月に30日にわたる法華三十講を追善供養の仏事として行なった。
法華八講は法華八巻を4日間にわたり先祖の供養のため行うもので一般に流布した。天台宗では天台大師と最澄の忌日に、11月霜月会、6月法華会と称する八講が行われた。
1005年、道長は宇治の木幡に浄妙寺三昧堂を建立した。木幡は基経以来藤原氏の墓地である。書道の達人、藤原行成に鐘銘や寺門の額を書かせ、鐘を鋳造、堂の仏像は仏師康尚に彫らせ、供養当日には天台座主以下、僧百人という大規模な供養を行った。
道長は吉野の奥、大峰連峰の金峯山寺の御岳詣も行なっている。山頂付近から元禄の本堂改修の際、約500字に及ぶ銘が刻まれた円筒形の金銅製経筒とその中に残っていた道長自身による書写の経典が発掘された。道長自筆の「御堂関白記」の記述とも符号するので画期的なことである。
1031年に良源の弟子、覚超は比叡山横川に円仁書写の法華経を銅製の筒に入れて埋納しようとした。道長の長女彰子はこの事業に賛同し自らも法華経を書写して埋めた。この時のことを書き記した文書が残っており、大正12年の発掘で金銅製経箱が出土した。経箱は全体に優雅な趣向で藤原期のものと見られ、国宝に指定されて延暦寺に所蔵されている。横川には多くの埋経がなされたので横川経塚ともいわれる。現在はその地に根本如法堂という木造の多宝塔が再建されている。
金峯山に登った前年(1006), 道長は摂関家の氏寺である法性寺(藤原忠平が建立)に五大堂を建立して先祖の供養を行っている。天台系寺院で密教色が濃かったらしい。五大堂とは不動明王など五大明王を安置する堂であり、その元で修する五壇法は、摂関期以降、調伏や安産祈願のための私的修法として盛んに行われた。五壇法を広めたのは天台密教の良源であった。この修法により冷泉天皇の狂気が収まったとして良源は名声を博した。道長は五壇法を篤く信じたようで彰子の出産まじかに土御門第で行った五壇法の祈祷は「紫式部日記」などに記されている。
「ほど近うならせたまふままに、御祈りども数をつくしたり。五大尊の御修法おこなはせたまふ(中略)。観音院の僧正、二十人の伴僧とりどりにて御加持まゐりたまふ。」
藤原氏の氏寺・氏社といえば興福寺と春日大社であるが、平安の頃には、北家摂関家の結集の場は法性寺というように細分化していたようである。五大堂の中尊不動明王は、現在京都東福寺の同聚院の小さなお堂に祀られている。また東福寺の西に隣接して法性寺という旧名を継いだ小さな尼寺があるが、そこに安置される千手観音は国宝で、忠平が建立したもともとの法性寺の本尊である。
(3)仏師 康尚(こうじょう)
仏師康尚は、991年から約三十年間、宮中や世尊寺・浄妙寺・無量寿院・比叡山・高野山など権力の中心で造仏を行った。康尚は藤原氏、とくに道長や行成に重用された。恵心僧都源信のために比叡山霊山院や華台院の仏像を造り、逢坂の関寺の仏像も同様である。康尚唯一の残存作品である同聚院不動明王像は、頭、体、両腕が当初のものである。康尚は、後に定朝によって完成される彫刻の和様化を進めた点に意義がある。全体に均整のとれた体つきで不動の憤怒の表情を誇張せず美しく気品のある伸びやかな姿をしている。宇治平等院の仏像は12c当時、ほとんど定朝の作であったが不動明王だけは康尚の作だったと記録されている。
道長は1019年、54才で出家した。その後も阿弥陀仏などの造仏を続け、土御門第の隣に無量寿院を造った。これに堂塔が加わり法成寺となった。家永三郎氏の言では「法成寺は、造形・律動の織り成す浄土の様相の立体的表現のため、あらゆる芸術部門を総動員して構成された美の一大体系であった」ということであり、この総合芸術は息子 頼通の平等院において完成に至る。(了)