シリーズ「日本の原型・・古代から近世まで」

第 6 節 「平城京と近江」

「平城京と木簡の世紀」渡辺晃宏氏が執筆を担当(日本の歴史04 講談社 2001年初刊)
(以下は近江関係を中心にメモ)

筆者は1960年生、東大文学部、同大学院を経て、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部研究官として木簡の整理・解読に従事

1.世情不安と三関の封鎖

708年(和銅元)、平城京への遷都の詔が出された。文武の死により中断していた平城新都造営事業が、これにより再開された。8年にわたる元明天皇(文武の母、阿へい皇女。「へい」は門構えの中に下)の和銅年間は、平城京の造営に明け暮れる時代であった。

709年10月に出された詔では、畿内の租と調を免除したりしているが「遷都によって揺れ動く民衆の心を静めようとしてもなかなか落ち着かない」と当時の不穏な情勢を述べている。新都造営を担ったのは畿内外からの雇役の民であり、その労働は強制労働に近く逃亡する者が続出した。

王朝が最も危惧したのは、畿内に広がる不穏な動きが東国に波及して行き、東国の武力と結びつくことであった。その前の月には藤原房前が、鈴鹿・不破の関の警備体制の引き締めと近隣諸国の治安維持のため、巡察使として派遣されている。房前はかって持統が没した直後にも、巡察使として東海道に派遣された経緯がある(因みに房前は、「海士」という能では近江を所領とした淡海公藤原不比等と四国志度の海女の間に生まれた子と設定されている)。

721年、元明の死の当日には、愛発(あらちの)関、不破の関、鈴鹿の関の「固関(こげん、関を封鎖して守りを固めること)」が実施されている。これも当時の不穏な情勢を示すものであろう。

722年(養老六)、長屋王政権による新政策がいくつか遂行される。いずれも地方で高まる不満の解消策とみられる。 (1)陸奥出羽の調・庸を免除 (2)百万町歩開墾計画、雑穀栽培の畑の開墾も奨励 (3)公出挙(くすいこ)、私出挙(しすいこ)による農耕資材の前貸し金利を5割から3割に軽減 (4)陸奥と大宰府に置かれた兵営への兵糧の運搬確保

723年には「三世一身法」として有名な開墾奨励策が出された。人口増加に対応する口分田用農地が不足し灌漑水路も整備されていなかった。新たに水路や池を造成した場合は三世まで相続できること、既存の水路や池を使っての農地の開墾の場合は本人一代限りの占有を認めるというもの。期限付きではあるが田畑の私有を初めて認めたことになる。

724年、皇太子首(おびと)皇子が聖武天皇として即位。災異の発生を神経質なまでに気にし、宮中や大寺での大規模な祈願をしきりに行い、仏教による鎮護国家の傾向を早くからみせていた。727年に待望の男子が光明子(不比等の娘)との間に誕生するが生後一年にも満たずに死亡、以後、政争の局面に入っていく。

729年(神亀六)、藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)が指揮する官兵が長屋王邸を取り囲んだ。三関にも使者が派遣され固関(こげん)が実施された。長屋王は、密告により国家転覆罪の嫌疑をかけられ、王は自邸で妻子に毒を飲ませて絞殺した後、自らも54歳で服毒自殺した。同年、年号が天平と改められ、藤原不比等の四子による政権が発足する。

2.相次ぐ遷都

740年(天平十二)10月、聖武は突然「考えるところあって暫く関東(鈴鹿関の東の意味)に行幸しようと思う」と言い残して天武の足跡をたどる旅に出た。平城京から名張をへて伊勢に入り、伊勢神宮には使者を遣わして奉幣、往時の大海人の行軍日程に合わせて伊勢・美濃を北上し、不破の頓宮に滞在、その折に恭仁(くに)京への遷都を決断した。

12月、不破頓宮を発った聖武は琵琶湖東岸の近江路を南下し、瀬田川を渡り壬申の乱の故地である粟津に一泊した。天智ゆかりの志賀山寺に詣でたあと、15日に恭仁宮に入った。宮の造営は740年から始まっていたが、まだ垣も大極殿も未完成であった。元日の儀式はその状態で行なった。東大寺(早逝した皇太子の霊を弔った地にある)建立、国分寺・国分尼寺の造営が進められた。東大寺は753年に完成、総国分尼寺としての法華寺が759年ごろに完成する。仏教重視の背景には光明皇后(光明子)に意思が強く働いていたとみられる。

742年8月、聖武は近江国紫香楽への行幸を行い、12月29日には再訪し。恭仁京には元旦に戻ったので恒例の元日の儀式(しかもこの年は創建なった大極殿での最初の元日朝賀にあたっていた)は2日に延期された。こうまでして紫香楽に、再三訪れる目的は一体、何であったのか?

743年4月には、三度目の紫香楽行幸を貴族28人、官人多数を引きつれて行い、2週間にわたり現地に滞在した。造営の進む紫香楽宮のお披露目を行ったものであろう。

7月には4度目の行幸を行った。今度は11月初までの長期の滞在であった。10月15日、聖武はこの地に櫨(木偏をとる)舎那仏の金銅像を造ることを宣言した。

「仏教の力によって世界を豊かなものにし、後の世に残る優れた行いによって生きとし生けるものすべてが栄えるようにしたいと思う。国中の銅を溶かして大仏の形を造り、大きな山を崩して堂を建て、皆一緒に仏の恩恵に浴し悟りの境地に到達させたいと思う。世の中の富は私の物でありこれを以って尊い仏像を造るのである。形を造るのは容易だが心を達成するのは難しい。民の苦労が増えるばかりで仏の教えを感得することなく、かえって悪い心が芽生え罪に落ちる者が出るのではないかと恐れている。もし一枝の草でも一把の土でも持ち寄って造立に力を貸してくれる者がいたら、みなこれを許そう。国司郡司らは民に助力を強制してはならない。このことを国内に布告し私の気持ちを伝えるように」と述べたとされる。

744年1月聖武は恭仁から難波の宮へ行幸したあと、2月24日紫香楽へと旅立った。26日には難波の宮を首都とするとの詔が代読された。大仏を本尊とする甲賀寺の造営が進むのにあわせ、同年後半紫香楽宮を甲賀宮と改称している。745年(天平十七)1月には遷都を象徴する大盾と槍(ほこ)が甲賀宮に立てられ、事実上の首都としての機能が始まり新京とも呼ばれるにいたった。(744年11月には甲賀寺で大仏の体骨柱を立てる儀式が行われ聖武自身が柱を引く綱を持ったという。)

745年1月、甲賀宮が正式の首都となってからわずか4ヵ月後の5月5日、聖武は甲賀宮を離れ恭仁京経由で11日平城宮に戻った。仏教の「法都」として栄えるはずであった甲賀宮は、人もなく盗賊が横行する有様だったという。平城還都を聖武に説得できたのは多分、元正太上天皇(母)以外にはいなかっただろう。4月には不審火も含め山火事が多発している。元正は、大仏の心柱を立てる儀式にわざわざ難波からやってきている。相次ぐ遷都への国内の不満が渦巻いていたであろうから、元正が奈良の地(夭折した皇太子のために立てられた金鐘寺、後に金光明寺と改められ、総国分寺としての東大寺に発展する)に大仏を造る事と引き換えに平城還都を聖武に受け入れさせたのだろう。

3.石山寺の創建と田上山の木材

大仏鋳造に必要な資材は、本体用の銅、鉱石溶解のための炭、表面を飾る金メッキ用の金、大仏殿のための木材などである。銅は長門国の長登銅山(秋芳洞の近く)から輸送された。金は産出が限られており大変不足していた。747年、聖武の夢枕に神のお告げがあったとされる。近江国栗太郡の琵琶湖岸の景勝地に寺院を建立し如意輪法を修せば、必ず金が産出するだろうというのであった。早速、勢多村に伽藍を建立(これが後の石山寺であるという)、その年の12月には下野国で金の産出をみたという。

造東大寺司は、近江国と伊賀国に山作所を有しており伐採製材を現地で行った。田上山の木材は、かって藤原宮造営でも使われた。また大仏殿の柱50本が播磨国から切り出されたらしいこともわかっている。

4.仲麻呂政権の絶頂期

748年4月、元正太上天皇が69歳で亡くなった。749年1月には、政務に興味を失っていた聖武は大僧正 行基の受戒で出家、2月には大仏建立諸国勧進の中心だったこの行基が死亡。752年4月の大仏開眼供養には、孝謙天皇(女帝)・聖武太上天皇・光明皇太后がそろって東大寺に行幸した。

749〜757年の天平勝宝年間、藤原仲麻呂政権は大仏開眼と平城京中枢部の改造を果たし、遣唐使も派遣(752年、帰路、鑑真が来日)し政権としては最も安定した時期であった。

この間、太皇太后宮子が死去した754年あたりから聖武の体調が徐々に悪化、756年56歳で死去した。光明皇太后は760年60歳で死去した。橘奈良麻呂のクーデタ事件を契機に仲麻呂の専制体制は一気に進み、758年の孝謙から大炊王(淳仁天皇)への引継ぎで総仕上げとなった。仲麻呂は藤原恵美朝臣押勝の名を与えられた。

5.近江国保良宮(ほらのみや)造営

光明皇太后の死と相前後して押勝は、近江国保良宮(ほらのみや)の造営を推進した。瀬田川の西岸、大津市国分付近と考えられている。造営は759年に開始され761年10月には遷都が断行され北京(ほっきょう)と呼ばれた。淳仁天皇と孝謙太上天皇という血縁関係のない両者に二人分の住まいを用意する必要が生じ、このための平城宮の内裏改修が行われたが、保良宮はこの間の天皇たちの仮住まいにするという目的があったとされる。内裏改修も保良宮造成も遅れに遅れ、結局、旧小治(墾)田(おはりだ)宮が仮住まいにあてられた。761年に保良宮に移った淳仁は翌年には平城京に戻った。

この時期は、大陸や半島で政治的軍事的緊張が走った時期であり、この辺の事情も遷都の動きに絡んでいたのかも知れないがこれを裏付ける具体的資料はない。小治田宮滞在の時期の762年、突然の新羅使の到来(筑紫で追い返した)があり、他方、押勝政権は新羅征討計画(その後中止)の検討を進めていた。758年の遣渤海使(小野の田守)は、唐で755年安禄山の乱が発生したとの情報をすでにもたらしていたが、762年に来日した渤海使は、その後安禄山が暗殺されたこと、玄宗、粛宗の相次いでの死亡、唐と渤海との関係改善などの重要な情報をもたらした。

6.孝謙と道鏡

平城宮帰還後、孝謙と淳仁の間には隙間風が吹き始めた。孝謙は出家して母 光明子ゆかりの法華寺に住まいながら、大きな国事には采配を振るい続けたので二頭政治となり国政は混乱した。押勝専制に対する不満も頂点に達した。「してはならないこと、言ってはならないことを淳仁が行い口にした」と出家に際し孝謙は、五位以上の官人を朝堂に集めて述べたがこれは何をさすのか? 孝謙は道鏡との仲を疑われたことを出家した理由に挙げているので、ヒントは続日本紀の道鏡の伝記部分にあるのではないか。

道鏡は河内国生まれで俗姓は弓削の連、サンスクリットに明るく禅の修業で聞こえ、宮中の看病禅師となった。761年に保良宮行幸に随行して以来、時折、孝謙の看病に侍り、次第に寵愛されるようになった。淳仁は事あるごとに孝謙に苦言を呈したため両者は不仲になったのだと言う。

7.世情不安と仲麻呂の軍事独裁

763年藤原宿奈麻呂(すくなまろ)らによる押勝暗殺計画が準備されたが、露見し未然に防止された。宿奈麻呂は兄広嗣の乱後伊豆に流され、その後許されたものの冷遇され恨みを募らせていた。押勝はこの年から764年にかけて腹心を衛府の長官に任じ軍隊の掌握に努めるとともに、美濃守、越前守などの「関国」の長に自分の子を任用して軍事体勢の引き締めをはかりつつあった。三関(さんげん)国と近江国からは762年に、郡司の子弟らによる通常の兵士役の徴用とは別に、健児(こんでい、弓馬に秀でた精兵)の徴発を始めている。

このころ日照りが続き飢饉が続発し二年続きで田租の免除がなされ、米価は4、5倍に跳ね上がった。764年には、灌漑用の池を掘削するための造池使が大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐の諸国に派遣された。灌漑工事には大規模な民衆徴発が必要なため、のちの兵力徴発の備えた動きであると見る向きもあった。皮肉にもそれを裏付けるように、近江国の造池使はその後の押勝追討にあたっている。

8.孝謙と押勝の戦争

764年9月11日孝謙が先に仕掛け、天皇の「鈴印」奪い合いの戦闘が平城宮中宮院(淳仁)と法華寺(孝謙)の線上で展開された。鈴印は奪取され孝謙の手に届けられたので、押勝は謀反人の烙印を押され位階、財産すべてを没収された。あわせて三関に対し固関(こげん)が命じられた。

押勝はその日の内に天皇の外印(太政官印)を持って近江国へ向った。近江国は戦略的要衝で藤原氏はここを重要な政治的基盤として代々その国司を務め治めてきたので、当時の近江はほとんど藤原氏の属国といっても良い観を呈していた。孝謙側は機先を制してまず勢多橋を焼き落とした。その結果押勝は琵琶湖西岸に沿って越前に向うほかなくなった。

これにより孝謙側としては押勝を湖西で南北から挟み撃ちにできるという利点があった。この戦略を練ったのは造東大寺司長官に任じられ大宰府から戻ってきていた吉備真備(きびのまきび)であったという。孝謙は押勝指名手配の勅を出し、太政官印を捺した文書には従わないように北陸道諸国に指令している。

押勝が近江高嶋郡にとどまっている間に孝謙方は越前国を急襲し、越前の守である押勝の子、辛加知を殺害した。これを知らないまま押勝一行は13日高嶋を発った。同行した道祖王の兄の中納言氷上塩焼を天皇として奉じ、孝謙の勅に従ってはいけない旨の勅を出した。押勝は愛発(あらち)関の攻略を試みたが越前側がすでに孝謙方に落ちていることから成功せずこれを断念、琵琶湖を横断して対岸の浅井郡塩津を目指したが逆風に押し戻され、再び陸路愛発関を目指すが抵抗激しく、結局越前国府に向うことができなかった。押勝軍は高嶋郡三尾崎まで引き返し戦闘が繰り広げられたが決着がつかなかった。そこへ藤原蔵下麻呂(くらじまろ、 宇合の子)が率いる孝謙方の援軍が到着し、形勢は一気に押勝不利に流れた。押勝は船で湖上に逃れ出た。そして勝野の鬼江というところで最後の決戦に出るが敗れ、最期は妻子と船に乗って鬼江に浮かぶところを石村石楯(いわれのいわたて)という武官に斬られ59歳の生涯を閉じた。天皇淳仁を伴わずに押勝は逃走したので、残された淳仁は孝謙の差し向けた兵に逮捕され淡路島に配流となった。

9.称徳と道鏡法王

孝謙は出家の身でありながら、事実上の天皇として復帰し称徳天皇と一般に称される。765年には道鏡を天皇に匹敵する地位である法王に叙した。出家して尼となった孝謙が神たる天皇の地位に戻り、僧たる道鏡が神に匹敵する法王になるということで、全国的に神宮寺の建立などの神仏混合策が進められた。吉備真備の影響で儒教も幅広く取り入れられた。道鏡は天皇として振舞ったが770年称徳が53歳で死去するに及びその権力は消滅した。

称徳の後は協議の末、大納言で天智の孫の白壁王が継ぐこととなった。白壁王は即位して光仁天皇となった。天武以来約一世紀ぶりに天武を始祖としない天皇が出現したことになる。白壁王は62歳で臣下からの登極であったが、妻が聖武の娘である井上内親王で、すでに二人の間には20歳くらいに成長した他戸(おさべ)親王がいたので、いずれ聖武の血は復活継承されるとの読みが周辺にはあったのであろう。井上内親王が皇后に、他戸親王が皇太子に即位したのも当然のことと見られた。

10.桓武の登場

しかしシナリオ通りには進まなかった。771年井上皇后は光仁天皇を呪詛したとして廃され、皇太子も地位を追われ775年には二人とも同じ日に死去した。ここに天武以来の血筋は途絶えることになった。替わって立太子したのは、他戸(おさべ)の腹違いの兄で37歳であった中務卿の山部親王であった。母は百済からの渡来人の血を引く高野新笠(たかののにいがさ)で、出自、経歴ともに異例中の異例なことであった。このシナリオを書いたのは藤原の良継・百川兄弟だったといわれている。良継の娘 乙牟漏(おとむろ)は山部の立太子を契機にその妃となった。

11. 律令制下の近江

林 博通氏分担執筆の「国郡支配と畿内の村」より抜粋(新版「古代の日本第6巻 近畿II」 角川書店 1991年初刊の第七章)

(林氏は、1946年生。京都教育大卒、滋賀県文化財保護協会専門員。「近江国分寺に関連する発掘調査」「新修 国分寺の研究ー東山道と北陸道」「近江の古代寺院」などの著作。)

(1)準畿内ー近江

律令体制は7c後半から整えられ、701(大宝元年)の大宝律令によって一応の完成をみた。その基盤である地方支配の実態はどのようなものであったか。近江中心に以下の通り。

律令制時代、近江は畿内ではなく東山道に入れられている。しかし畿内の動向に敏感に反応する準畿内的性格を持っていた。近江はまた朝廷を支える重要な生産基盤を当時すでに有する大国であった。

近江は藤原氏との関係が深く、藤原武智麻呂・仲麻呂父子、縄(ただ)麻呂、家依、種継らが国司の守として在任し、760年には武智麻呂の父である不比等が勅により近江一国に封じられて淡海公の称号を贈られ、藤原氏の領国的性格も持っていた。

(2) 近江国衙

大宝律令により近江国は12郡で構成されることになった{滋賀・栗太(くるもと)・甲賀・野洲・蒲生・神崎・愛智・犬上・坂田・浅井・伊香(いかこ)・高島}。国司の地方常駐体制は、690年頃(持統四)には地方官の大人事異動が行われていることからみて、遅くともその頃までには確立していたとみられる。

近江国では694年(持統八)、益須(やす)郡の都賀山に温泉が湧き多くの病人が助けられたことから国司以下が位一階の昇進を受けたとの記述があり、この時点では確実に国庁が存在し常駐の国司がいたといえる。

国庁は栗太郡勢多郷の丘陵(現在の大江六丁目の丘陵辺り)に設けられた。敷地の広さは東西二町、南北三町の範囲で、中央に正殿、東西に脇殿が配置され、いずれも瓦葺の雄大な建物であった。四囲は築地塀により囲まれていた。国庁は760年ごろから10c末まで存続したと見られる。瓦葺となったのは平安前期とみる説もある。国庁の周囲には国府域が広がっていた。しかしその範囲については諸説がありまだ不明な点が多い(いずれにせよ国府域は現在のJRびわこ線と新幹線の間に広がっていたとみられる)

(3) なぜ瀬田か?

大和に都がある場合、東海道は近江を経由することなく伊賀・伊勢を経て東国に通じられる。北陸へは山背を北上し、山科から小関越を経て湖西路を北上した。東山道は同じく山背を北上するが、現在の城陽市付近から宇治田原道を経て瀬田川の東側を瀬田に出て湖東平野を北上することにより、難所の瀬田川を渡らずに済んだ。

大津に都がある場合には大津京から瀬田までの道が新たに東山道・東海道となるので、どうしても瀬田橋の安全を確保するためには東岸の瀬田の地を抑える必要が生じた。その結果、国庁が瀬田に立地したのであろう。国庁付近には大化改新以前の遺跡は意外と少ないことも、このことを物語っているのではないか。因みに当時の勢田橋は今の唐橋から80mほど下流にあった。

(4) 栗太郡衙

大化改新の後、中央政府は地方豪族の力を弱め全国の土地・人民を一元的に支配するため、これら豪族を律令体制内の郡司として取り込み国司の支配下に組み入れていった。近江では栗太郡衙とみられる岡遺跡が知られている。1986年、栗東町大字 岡・目川・下戸山で古代の遺構が発掘された。この地域は金勝川と草津川が合流する地域で「和名抄」にいう治田(はるた)郷に当るとみられる(後に春田村と表記され現在は春田小学校が近くにある)。この官衙が整備された8c前半期の遺構は東西210m以上、南北340mで四周は幅数メートルの濠で画されている。郡庁や稲などを入れる倉院などのあった中心地域にはもう一重の濠がめぐらされていた。

この郡衙は、周囲に各時代の地域首長の古墳が多数分布する野洲川左岸地域に立地しており、岡遺跡の東南700mには栗太郡唯一の伝統的豪族である小槻山君(おづきのやまぎみ)の祖神を祭る小槻大社があり、伝統的豪族の根拠地に郡衙が立地したものと見ることができる。国衙が空閑地である勢田に立地したのに比べ対照的である。

(5) 里レベルの官衙

郡よりも末端の里支配のための官衙遺構としては、野洲郡中主町の西河原森の内遺跡がある。全貌は未調査であるが出土した7c後半の木簡をみると興味深い。ある木簡の差出人は椋直(くらのあたい)と記されており、手馴れた書体や文体などから見て教養豊かな官人的素養をもった人物であったと見られている。木簡は部下に宛てたもので「私は衣知評(えちのこおり)まで行ったが、稲を運ぶ馬を得ることができなかったので運ばずに帰ってきた。だからおまえは舟人を自ら率いて平留里の里長の旦波博士(なにわのふびと)の家まで行ってその稲を運んでくるように」という内容であった。「椋直」は倭漢直(やまとのあやのあたい)氏の枝族で中央官人か、地方へ派遣された官人と見られている。平留里は現在の彦根市稲里町付近とみられ郡庁から湖岸沿いに20kmの地点にある。旦波博士はやはり倭漢直氏の系統で椋直と同族の系譜にある。


王朝国家時代と近江・・・以下1〜4までは「古代の地方史 5 畿内編」第13章 中野栄夫氏が分担執筆(朝倉書店 昭和54年9月初版)。 執筆者は、1976年東大人文科学研究所博士課程終了後、岡山大講師

1.愛智荘

愛知川の北側で今の湖東町の西、愛知川町の東南にあり、江州米を産する美田地帯(1980年代に滋賀県が行った圃場整備事業により、条里制地割の遺構は跡形もなく無くなってしまった由)。

愛智荘には元興寺領と東大寺領があった。元興寺領はもともと「本願荘」(聖武天皇が購入したと伝えられる、口分田地域の周辺で水の便がかなり良かった)とその後に加わったより条件の悪い開墾田地からなる。後者は東大寺が主として9世紀ごろ購入した田地。1160年頃(永暦年間)までには両者が合体され、東大寺愛智荘となった。

2.古条理と統一条理

昭和54年当時残っていた条里制地割(「統一条理」)が途絶えている地区が、菩提寺〜勝堂〜栗田部落を結ぶ地域、および、清水中(しゅうずなか)〜畑田(はたけだ)〜平居〜苅間部落で囲まれる地域などにみられた。この地域には古寺院跡や群集墳が見られることから、「古条理」の遺構が残っていた地域だとの仮説がうまれた。古条理の遺構地域は、統一条理実施以前からの古くからの集落あるいは口分田地域であったと考えられている。

これら古い地区ではもともと自然湧水などによる耕作が行われていたはずだが、その周辺に耕地を拡大するため「愛智井(えちゆ)」といわれる灌漑用水路が愛知川から引かれ、新規農地の地割が行われたと考えられる。これを「古条理」と呼ぶ。

その後、犬上・愛智・神崎三郡にわたる統一的な条理(「統一条理」)が施工された。統一条理の工事は古条理地域には手を付けなかったため古条理の遺構が残ったとされる。

3.荘園の経営

元興寺領の愛智荘に関しては、859年(貞観元年)の検田帳が残っている。これは検田使の延保という者が848−859年にかけて東大寺の荘田の経営不振の原因を調べるため派遣され、現地に駐在して対策に奮闘した記録。

荘田の一つは、荒廃したことを理由に長らく地子(地代)が納入されていなかった。延保が現地に乗り込んで調べたところ、その田は依知秦公乙長(えちのはたのきみ おとなが)という者の治田(はりた 開墾田)と分類されてしまっていて、しかも耕作され稲が立派に熟していた。依智秦氏はこの地域に勢力を有した豪族である。

乙長側は、元興寺の寺田は治田(開墾田)よりも東の高地にあると主張したのに対し、延保は「田は低地から開き始めるものであるのに、昔からある寺田が高いところにあって後に開墾した治田が谷にあるのはおかしいではないか」と詰問し、相手は答えに窮し、以後、地代が納入されるようになったといった話も記されている。

4.大国郷(愛智荘)

東大寺が9世紀ごろ墾田を次々と購入し、やがて東大寺領 愛智荘に組織していく記録が残っている。律令制的な村落秩序(公地公民、口分田)の解体と中世的な荘園制村落秩序の形成、徴税体系の変化などがうかがえる興味深い。

墾田購入の財源は、東大寺に納入される「房中」分とされる出挙銭と、愛智荘に留め置いた「息利稲」の双方が利用された。737年には、王臣諸家が「稲」を諸国に貯蓄し百姓に貸し出す(出挙)のを禁止しており、このような中央の指令が10c初めまでの初期荘園形成期に繰り返し出されているが効き目はなく、荘園の成長が続いた。

東大寺が大国郷の土地を入手するきっかけは、この土地が東大寺の「封戸郷」(東大寺関係者を農業生産のため住まわせるという意か?)であったらしいということによる。封戸であれば、租庸調は朝廷の地方機関である国衙を経由せず、直接、東大寺に納められる。

律令制の下での郡郷制は、国〜郡(評、ともに「こほり」と読む)〜郷〜(保)〜戸という支配系列。郷はいくつかの村落を徴税上、50戸づつにまとめた技術的単位に過ぎず、政治的経済的まとまりを持っていたのは、郡と村であった。

9世紀は地方の事情を知りうる資料が少なく大国郷の資料は貴重である。

5.地方政策の変化

(以下は、同一本第12章の坂本賞三氏執筆部分より抜粋。同氏は、1966年京大文学部博士課程終了後、広島大文学部教授)

(1)籍帳をもとに農民を支配し人別に徴税する律令制は早くから動揺を来たしていた。律令制の地方での執行者は国司であった。籍帳からの離脱(浮浪化など)や課役免除の特権入手などが頻発し、人別の把握が次第に困難になったので、人別税を便宜、土地の面積に合わせて徴税する(正税の地税化)という非合法措置が各地の国司により導入されていった(資料としては822年の河内国の例がある)。824年、藤原冬嗣は、中央政府の理念と国司支配下の実態との違いを杓子定規に取り締まるようなことはするべきではないと言っている。

すでに天平期に、口分田用の農地が不足して来たので開墾を奨励する必要が生じた。このため開墾地の私有を限定的ではあれ認めるとの政策上の大きな妥協が行われた(三世一身法)。中央政府が「力田(りきでん)の輩(ともがら)」として有力農民に注目し、彼らの力を開墾に利用し始めたのである。彼らは、墾田、手工業などで力を伸ばしつつあった。一般農民は耕作に追われ、「調」のための物品の家内生産は行っておらず、農繁期に田夫を臨時雇いするための資力にも欠けていた。力田の輩は、手工業の生産・流通も手がけており、開墾の資力もあり、田夫の臨時雇いの能力もあった。一般農民は勢いその支配下に入り、物品での納付も有力農民に代行してもらったとみられる。

このような律令制の後退によって、地方の国司や力田の輩など有力者は蓄財を進めていった。896年、諸国に検税使を派遣して国司の隠し財産を摘発しようということが中央で論議されたが、国司となった経験のある菅原道真はこれに反対し、国司は律令法通りにやっていたのでは国内支配が出来ないのが実情だと述べている。

902年(延喜二)、左大臣 藤原時平主導の下に「延喜 荘園整理令」が打ち出された。この一連の国政改革は、律令制の原則に即して国家支配を復古的に立て直そうとしたものであったが、それは到底実現できるものではなかった。時平の改革がつぶれた後、それまで非合法的に続けられてきた国司支配の実態を公認して国司に任国支配を任す一方、国司が中央に納める額を国ごとの田の広さに応じてに定め、中央としては定められた額以上の納付は通常求めないこととなった。この体制を「前期王朝国家」(10c〜11c半ば)と名づける。

各国毎に当時定められた田の広さは以下の通りであり、近江は全国第四位で近畿ではトップ。全国順位は次の通り。

陸奥 51,440 (単位 町歩)、常陸 40,092, 武蔵 35,574 , 近江 33,402, 上野 30,937,
信濃 30,908, 下野 30,155, (以下は近畿近縁の地域のみの順位)播磨 21,414, 伊勢 18,120,
大和 17,909, 美濃 14,823, 摂津 12,525, 河内 11,338, 丹波 10,666, 山城 8,901,
但馬 7,555, 紀伊 7,198, 尾張 6,820, 三河 6,820, 飛騨 6,615, 丹後 4,756, 和泉 4,569,
伊賀 4,051, 若狭 3,067, 淡路 2,650

(2)後期王朝国家は1040年に出された「長久の荘園整理令」により始まった。それまで内緒にされてきた荘園は課税も免れていたが、この整理令は荘園を公認することにより、課税もするということになった。これ移行の社会を「荘園・公領制」と呼ぶ。

後三条天皇(1068即位)により関白頼通(道長の子)は宇治に引退し、弟教通に職を譲った。後三条は摂関家を外戚としない天皇として即位したので、摂関家を抑える政策を導入した。新政策の目玉は荘園整理令の発布と記録荘園券契所(記録所のこと)の設置であった。1069年の有名な「延久荘園整理令」であり、記録が定かでない荘園の召し上げなどが行われた。「愚管抄」には、摂関家などによる全国の公田の掠め取りが横行していたの「一天四海の巨害なり」と後三条はみなしていたと記している。

この改革によって注目されるのは「公田官物率法」が導入されたことである。それまでは国司が反当りの官物(税)の賦課率を自由に定めることが出来たが、国司や受領などの地方役人がますます富裕になり、摂関家に高価な贈り物をしてお目こぼしを受けたりする悪弊が広まった(藤原道長が権勢を誇っていた頃、諸国の受領が目を見張るような品々を道長に献上したという)ため、国司の裁量の余地を大きく制限しようとしたものである。

小農民の自立、在地領主の成長、その背後にある公田の私領化、規制が多くうまみの減った公田の放棄と開墾の進展などを背景に、中世的な荘園体制の社会が徐々に成立していく。国司のもとにあった郡司・郷司は、荘園と公領との境界画定の強制執行ため武装化を始め、やがて在地領主化していくことになる。この結果、武士イコール在地領主という関係が11c後半には出来上がっていく。このころから12c末にかけては、公領と荘園がその境界をめぐって熾烈なせめぎ合いをする時期と言える。

後期王朝国家体制に入ってほどなく白河院政が始まる。院政のもとでは荘園が急増した。すでに成長しつつあった在地領主と荘園領主たちは対立したり融合したりしながら、鎌倉時代の守護(軍事政治)・地頭(経済)制に向かっていく。(了)


目次