「日本の歴史」(講談社版、中央公論社版)、「蒙古襲来」白石一郎著 NHK出版など。
150年余の鎌倉時代を、頼朝の鎌倉入りを起点として伸びていく放物線と見れば、1256年の執権北条時頼の出家がその頂点となり、放物線の後半部分は内憂・外患が連続し幕府の勢いは下降していく。後半期の主要な出来事は次の通り。
蒙古襲来、幕府の根幹にかかわる改革の企て、質入や売却された土地の徳政令による復旧、天皇家の両統分裂と幕府乗っ取りの北条三代、朝廷の権威低下など。
頼朝の鎌倉入りに父子三人で従った北条氏は、13c半ばには8〜10の家系に分家し、一族は常時50人ほどになっていた。これに幕府草創以来の東国豪族や文筆官僚約25家ほどを加えた4〜500人ほどの人々(「鎌倉中」と呼ばれた)が都市鎌倉の主人公であった。
「60余州の兵を集めても、武蔵・相模両国の武士団にはかないますまい」と楠正成をして後醍醐に言わしめた東国武士団も幕府の支えであった。東国武士の存立基盤は、一族が幕府草創以前から有していた元々の居住地及びその周辺の開発支配地(いわゆる「屋敷」であり、課税や人的奉仕の関係では「私領」であり非課税)に加え、武功により幕府より与えられた「恩給地」(課税や人的奉仕の算出ベースとなり「公領」)の二種類であった。東国武士が幕府から西国や九州に恩給地をもらうと、一族の誰かが現地に移動して住みつき支配していくとのパターンが見られた。このようにして幕府への恩顧と奉仕の関係が成立する。
鎌倉中期以降の地方各地での支配構造は、朝廷と幕府の統治権が入り組んで複雑な様相を呈した。個々の公領・荘園に対しても両者の支配が絡まり合ったが、より広い地域(国)レベルでも平安時代以来の国司と幕府により送り込まれた守護が並存した。
北条時宗は執権の父時頼の第二子として1251年生まれた。三歳年上に時頼の側室の生んだ時輔がいたが、時頼は正妻の子時宗を嫡男として育て儀式の際も時宗を常に上座に据えた。関係者の死去などで14歳で執権の次席である連署の地位に就くめぐり合わせとなり、4年後の1268年、奇しくも蒙古よりの最初の国書到来の年、八代目の執権に就任した。文永・弘安の両役を乗り切った後、1284年34歳の若さで没した。その生涯は蒙古との戦いに捧げつくされたと言える。
フビライ・カーンはモンゴル帝国の第5代皇帝として1260年に即位し、1276年南宋を征服、その間大都の建設を進め1271年には国名を中国式に大元と改めた。フビライは日本に朝貢を促すため高麗王に仲介を命じる使者を1266年に送っている。日本と元の戦争にでもなればすでに疲弊している高麗にさらに累が及びかねないとの危惧から、元が日本への関心を抱かぬよう高麗王は再三にわたり工作に努めたが、日本が元の交戦相手国である南宋と通商を続けていることを目障りと考えるフビライの日本を服従させる方針は変わらなかった。最終的には武力による脅しにより高麗は1268年、元の国書を携えた国使を日本に派遣することにしぶしぶ応じた。(高麗は蒙古に対する30年に及ぶ抵抗の末、1260年に降伏している。)
蒙古の国書は次のようなものであった。
「こいねがわくば今より以往、問を通じ好(よしみ)を結び、以って相親睦せん。且つ聖人は四海を以って家となす。相通好せざるは あに一家の理ならんや。兵を用いるに至っては、夫れいずれか好むところとならん。王(日本の王のこと)それ之を図れ」。幕府の面々はこれを見て怒り、朝廷とも諮った上で「無礼の国書であり返書は必要ない。蒙古と国交を結ぶことについても勅許はなかった。帰国せよ」として使節を追い返した。
翌1269年初めには使者が対馬に現れ前年の国書に対する返答を求めてきたが、幕府と朝廷は返答の必要なしとの態度を維持した。9月には二度目の国書を携えた使節が博多に現れた。朝廷はこれに対して返牒という形での回答を用意したが、時宗はこれを握りつぶした。それ以後五年後の蒙古襲来に至るまで、高麗王の特使を含め再三の使節が到着するが日本側はまともな返答を与えていない。
この間、日本側では内政面での混迷が続き、蒙古襲来に備える見るべき対策は採られていない。朝廷では襲来の二年前に後嵯峨天皇が病死し皇位継承をめぐって対立が生じた。鎌倉の仲介によってようやく亀山天皇が定まるという混乱があった。皇位の両統迭立の始まりである。
幕府内では1272年時輔・時宗の義兄弟間のお家騒動があった。異母腹の兄時輔は時宗の執権就任に不満で同族の名越教時、仙波盛直らと組んで謀反を企み、これを察知した時宗は名越、仙波らを鎌倉で殺害、京都では時宗の命を受けた軍勢が六波羅を襲撃して時輔を殺した。
フビライの方は着々と日本遠征計画を推し進めていた。1268年、74年とフビライは高麗王に対し戦艦千隻の建造を命じている。高麗が建造したのは大船300、軽疾船300、給水用小船300の計900隻であった。高麗は全州の辺山と羅州の天冠山辺りの海浜で3万5千人の労働力を集め突貫作業で建造したといわれる。1274年にフビライは、すでに高麗に駐屯していた5千人に加え日本征東軍として1万五千人を増派している。これに高麗王が助成軍として8千人の兵力を提供した。船員、雑役などを加え総勢34,700人であったとされる。遠征軍が高麗の合浦(馬山)を進発したのは1274年10月3日であった。
1274年(文永十一)10月初め(太陽暦11月10日頃)、北九州海岸に大量の馬糞が流れ着いた。對馬から壱岐へと進攻する蒙古・高麗連合の大軍来襲の前兆であった。彼等はやがて肥前(佐賀)の沿岸部を掠めながら博多湾に姿を現わした。文永の役は一日限りの合戦で敵は威力偵察を目的としていただけともみられるが、日本側には強烈な恐怖感を残し以後20年の間、営々と臨戦態勢が構築される。
蒙古や高麗からは1268年以来、累次の使者によって元の国書や関連情報がもたらされており、1271年9月の使者は最後通牒を残していった。9月13日には九州に所領をもつ武蔵国の御家人に対して、直ちに九州に向かい鎮西守護の指揮下に入るべしとの命令が出されている。しかし実際に戦ったのは九州在の御家人達であり、東国からの参加兵力は限りなく小さかった。
すでに白河上皇の頃(1095年から30年余)、蒙古の地に日本人の足跡が及んでいたことが記録されている。ある商人僧は契丹国に入り、刀剣と交換に鷹や野獣の毛皮・砂金などを手に入れている。契丹は女真族を支配下において鍛鉄を産したが、製鉄用の森林資源の枯渇で武器の新たな入手先を求めていたと思われる。対馬や博多沿岸には「刀伊(とい)」と呼ばれた胡人による小規模な来襲もあった。いずれにせよ院や幕府のアジア北方世界のことへの関心はきわめて薄かったというのが当時の実情。
モンゴル側では太祖チンギス・ハーンが、1233年女真族の金を滅ぼし北中国を支配下に置いた。その後約20年間は後継者を巡る争いが続き、孫のフビライが1257年開平府を開き即位した頃から東アジアの征服・統一がようやく視野に入ってくる。1276年には南宋の臨安(杭州)が陥落した。1279年(弘安二)フビライは中国南部の諸州や高麗に戦艦の建造を命じている。今回は南宋の降兵10万、艦船3500隻が加わり(江南軍)、東路軍(蒙古・高麗)とあわせ14万2千人、4千400隻という大軍が準備された。東路軍は合浦(馬山)から、江南軍は慶元(寧波)からそれぞれ発進し壱岐島で合流して日本に上陸するという作戦であった。
1281年(弘安四)6月6日、元・高麗連合の東路軍のみが博多湾に入った。江南軍は総司令官の急逝による交代人事が手間取り発進が遅れたのである。博多湾の海岸沿いには延々と高さ一丈三尺(約3m)の石の壁、波打ち際にはびっしりと乱杭が打ち込まれ、石築地の上には何千本もの旗が翻り盾が隙間なく並んでいた。これを見た連合軍は上陸を断念し、石築地のない志賀島から能古島の沖に900艘の船団を停泊させ、夜襲に備えて互いの船を鎖でつなぎ合わせた。戦闘はこの日から約二ヶ月にわたり続き、小舟に乗った日本武士が夜陰に乗じて近づき攻撃、敵側は石弓(回回砲とよばれた投石器)で石の弾丸を浴びせ返した。志賀島には東路軍が一時上陸して戦闘となったがその後引き払い、船団は壱岐島に後退して江南軍の到着を待った。6月の炎暑のもと船団内で疫病が発生し病死者が3千人に及んだことが関係しているという。その後、江南軍の合流場所が平戸・鷹島に変更されていることを知り7月にはそちらに移動を開始した。
6月中旬(18日とも)には江南軍(10万人、3500艘)が平戸水域に到着した。内600隻は平戸に上陸し、残り2900隻は伊万里湾(西方沖合に鷹島が防波堤のように横たわる)に向かった。伊万里湾は倭寇の名で恐れられた海賊松浦(まつら)党の根拠地である。江南軍はこの後ひと月ほど東路軍が合流してくるのを待ち動きを示さなかった。東路軍が伊万里湾沖に到着するのは7月下旬であった。なぜそんなに時間がかかったかは判然としない。伊万里湾は江南軍の艦船ですでに満杯であり、東路軍は鷹島の外洋側に停泊せざるを得なかった。この一帯は高波が立ちやすく岩礁も多い地点であり停泊には適していなかった。東路軍としては合流後は博多湾方面の上陸作戦に向かうことを予期していた仮の停泊であったが、これが災いをもたらすことになった。こうして運命の7月30日(弘安四の7月は30日まで)と翌閏7月1日(太陽暦では8月23日)を迎えたのである。
暴風雨は30日深夜から未明にかけて荒れ船団を壊滅させた。互いに鎖で繋がれていたため被害は一層大きくなった。捕虜のうち、モンゴル・高麗・女真・旧金国内の漢人はすべて斬られた。江南からの軍船は元をよく思っておらず敗戦を喜んだという。しかし元は諦めないどころか船や兵糧を朝鮮半島南部の多島海に集中するなど再攻撃の準備にとりかかっている。日本では第三次の来襲があることは、当時ほとんど既定事実として受け止められていた。幕府が臨戦態勢を解くのは15年後のことになる。
1284年執権北条時宗が没した。弟(宗政)はすでに弘安の役の年に死去しており、北条嫡流家では肥前国守護としてモンゴルに備えるもう一人の弟(時定)以外は年少者ばかりで、後任の執権は14歳で就任した。
恩賞地を創出・確保することが第三次来襲に備える幕府にとって最大の課題となった。従来、国内の敵を相手に戦った場合には負けた方の没領を恩賞に使うことが出来るが、今回の蒙古来襲ではそうは行かない。まず神人を兵力として提供する神社関係者達に対しては、彼等が名田や神職までも売却・質入していたのでこれらを旧に復させる(徳政)ことを以って恩賞とした。功労のあった九州の武士に対しては新たに「御下文(おんくだしぶみ)」を与え、いずれ領地を安堵するとの方針だけを示し具体的には追って沙汰するという形で当座をしのいだ。
この困難な時期の対応をこなしたのは陸奥安達郡を本所とする安達泰盛であった。祖父(景盛)が頼朝の奥州征伐に従い安達郡の地頭職を得たのが始まりで、1218年秋田城介(秋田城を管轄する出羽国の介)に任ぜられて以後は安達姓に替わって秋田姓を名乗った。1247年の三浦一族を亡ぼした宝治の合戦で泰盛は、祖父の命で父(義景)とともに緒戦に立ち三浦館を攻め功を上げている。1285年11月、泰盛の嫡子が将軍職を望んでいるとの風説が立ち、泰盛以下一門が北条側により亡ぼされた(霜月騒動)。
1285年の秋、200艘の船団が北の沿海州から朝鮮半島南部の合浦(馬山)に入った。既に百万石を越えるコメが中国中部沿海地域から合浦に運び込まれていた。江南の軍船も同地に合流することになっていたとされる。揚子江河口では大船千余艘が模擬演習を行い、内陸占城(チャンパ)で作戦中の将軍、一万人の兵、50人の回回(フェイフェイ)砲の砲手が呼び戻され日本征討軍に加えられた。回回砲はイスラム伝来の高性能砲で、南宋攻略に用いられ威力を発揮したとされる。「元史」世祖本紀が伝えるこれらの記事は、第三次攻撃の恐るべき規模・内容を想像させる。
元側で征討中止の命令が出されたのは年が明けた1286年正月であった。記録には「日本は孤遠にして島夷、重ねて民力を困む(くるしむ)」とされているが、前年暮の皇太子真金(チンキム)の突然の死が世祖に大きな影響を及ぼしたのではなかろうか。30余年に及ぶ世祖の治世はやがて終わり、大元帝国に内紛と混乱の時代が訪れる。フビライは1294年、80歳で大都で没した。
中世の近江では東山道(今の中仙道)の南から北へ、日野川渡河地点の横関に始まり馬渕・愛知川・長野・枝村・四十九院(つくもいん)・奈宕(なご)と、直線距離で25kmの間に八箇所にも及ぶ市庭(いちば)があった。東山道に沿う浜街道にも嶋郷・出路(でじ)・尾生(おう)などがあった。東山道愛知川の南の小幡から鈴鹿峠に向う伊勢道(いせみち)沿いには日野・八日市に市庭があった。
このうち長野(現愛知川町)の一日市(ついたちいち)は近江の「親市」といわれ、その起源は古代の依智秦公(えちのはたのきみ)による開創にさかのぼるとして由緒を誇っていた。
中世でもっとも目覚しい活動を示したのは保内商人として知られる得珍保の下四郷(現八日市市)の商人たちであった。比叡山延暦寺の僧徳鎮に由来する名称と言われるように、この地の開発には延暦寺が深く絡んでいた。鎌倉時代には延暦寺の管轄する荘園になっている。得珍保には上四郷と下四郷があったが、灌漑条件の悪い下四郷では鎌倉時代以来、商業に従事する人が多く出ている。
得珍保は、伊勢に向って伸びる三本の山越えの街道(上出の伊勢道のほか、八風街道と千草越)の出発点に位置していた。保内商人はこの地の利を生かし、初めは主として伊勢との通商にたずさわった。石塔・小幡・沓懸の商人と共に山越四本商人と呼ばれ、かれらは伊勢との通商を独占していた。
四本商人は東山道の南側に住んでいたが、北側の田中江・小幡・薩摩・八坂(はっさか)及び湖西の高島のいわゆる「五箇(ごか)商人」は若狭との取引を独占していた。小幡は双方に顔を出すが、これは小幡がより古い由緒の故に他の商人に卓越した地位にあったことによるものと思われる。
伊勢商売で近江に運び込んでいたのは、麻の苧(お)・木綿・土の物(陶磁器)・曲げ物・油草(菜種・胡麻)・若布(わかめ)・海苔・伊勢布・鳥や魚の類であった。ただ、湖東においては保内商人は遅れて登場した新興の商人団だったので、商権をめぐって既成の商人たちとしばしば衝突事件を繰り返した。偽造した後白河法皇の院宣や領主延暦寺の権威を利用して、他の商人たちとの争論に強引に打ち勝って行った。
16世紀になると保内商人は、五箇商人が独占していた若狭との九里半越の通商にも権益を主張し、かげりの見え始めた延暦寺を見限り、戦国大名として地位を築きつつあった六角氏と結んでその主張を実現させている。
保内下四郷の七か村に三津屋を加えた保内商人の人数は、16世紀始めに200人を数えたとみられる。これに足子(寄子とも)と呼ばれる商人が近江・伊勢に約200人いたとされ、商権拡大の争いの折などに一致団結した。日常の商売については厳しい内部規定を設けていた。1518年の「諸商売定書(さだめがき)」には、京都に毎日上ることの禁止、伊勢への山越商売は竈一軒につき馬一疋だけに限ること、割符替銭(わっぷ かえせん)といった為替の類による商売の禁止などを事細かに定めている。
年代未詳の文書によれば、行商に出かける前に百文の銭を十禅師権現の庵室に持参し、その旨を帳簿につけておくことが定められている。1527年には三か条の定書で、商人が暴力や不正商行為に及んだ場合は末代まで商売停止することを定めている。
得珍保下四郷は七つの村からなっていたがその一つである今掘村では、1489年二十か条からなる村掟を作り、村人と惣の関係を細かに定めている。惣とは村の自治組織をいい、中世の近江の村では程度の差こそあれ村落自治が広まっていた。
今堀惣の「今堀地下(じげ)掟」では、十禅師権現の維持・管理に関する規定のほか、村の請人(うけにん)なしに他所者を村に入れないこと、村の共有林で青木や葉を取ることの禁止、村内での犬の飼育の禁止、権現の宮座に出席できるものとそうでない者の区分、間人(まっと)と呼ばれ今堀に定住した時期が遅かった人々の後裔は、宮座においても一段下の扱いを受けること、などが規定されている。身分・権限が細かく規定されているが、同時に自治による柔軟性が確保されていたとみられる。
共同体内部における新旧勢力の葛藤は荘公領のみに限られなかった。商人で「座」を構成する人々たちもその後に出来てくる「新座」と対立が生じ、鎌倉時代末になると座を持たぬ「里商人(散在商人)」が増え、京の洛中では座の商人を凌駕する勢いを示したらしい。
金沢貞顕は六波羅探題や連署の要職を歴任し金沢北条氏の家運を隆盛たらしめた。金沢北条氏は、六浦庄(今の金沢八景あたり)を根拠とし、執権北条泰時の弟実泰を始まりとする。代々好学の伝統があり金沢文庫古文書(称名寺文書)が今日に伝わっている。
貞顕が9年に及ぶ六波羅職を終え鎌倉で連署の地位にあった1319年、山門叡山の衆徒たちが寺門園城寺を襲って火を放ち深刻な武闘となった。園城寺はそれまでにも幾度も戒壇設立を試み、その都度山門により戒壇を壊されてきたが、この時は折角建立された金堂を含めすべての堂舎が焼き払われ、明らかに先例を越えた山門の振る舞いであると花園上皇の日記には記されている。
この時の園城寺の長吏は貞顕の兄顕弁僧正であった。貞顕が六波羅にいた1314年、金沢北条の家人たちが日吉社の境内で山門の神人(じにん)たちと激しい争いとなり、双方に死傷者を出す事件を起こしている。山門の園城寺に対する振る舞いは北条貞顕兄弟に対する憎悪感が加わったものである。
騒動を受けて園城寺・叡山の代表が六波羅に喚問されたが、戒壇問題は園城寺全体の意向であり今回の事件で園城寺側の張本人は特定できないとして叡山側に厳しい裁定がなされた。この時、配流となった上林坊豪誉(日吉社での事件の山門側の首領)はその後、赦されて鎌倉に訪ねて来たので貞顕も丁寧に遇した。これが二年後に役立った。後醍醐が笠置山に籠城した際、一旦は天皇方についた山門勢を豪誉が工作して六波羅側に降参させたのである。
卜部兼好(1283ごろ〜1352ごろ)は鎌倉末から南北朝の激動時代に生きた。徒然草の大部分は兼好40歳代後半に書かれたとの説が有力である。吉田神社の神官の家柄であり吉田兼好ともよばれる。30歳前後で出家した。
「つれづれなるままに、ひぐらしすずりにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしいけれ。 いでや、この世に生れては、願はしかるべきことこと多かめれ。 あだし野の露きゆる時なく、鳥部山のけぶり立ちさらでのみ住みはつるならひなら ば、いかに物のあはれもなからむ。世は、定めなきこそいみじけれ。 命長ければ辱多し。 飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り事去り、楽しび悲しびゆきかひて、花や かなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変わらぬすみかは人あらたまりぬ。桃李ものい はねば、誰とともにかむかしを語らむ。まして、見ぬ古へのやんごとなかりけむ跡の みぞ、いとはかなき。 名利につかはれて、しづかなるいとまなく、一生を苦むるこそおろかなれ。財(たか ら)多ければ身を守るにまどし。 蟻のごとくにあつまりて、東西にいそぎ、南北にわしる。高きあり、賤しきあ り、、、、いとなむところ何事ぞや。生を貪り利を求めてやむ時なし。身を養ひて何 事をか待つ。期(ご)する所、ただ老と死とにあり。 何事も入り立たぬさましたるぞよき。よき人は,知りたることとて、さのみ知り顔に やはいふ。(果たしてそれほど知ったかぶりして喋るかどうか) 「亢龍(こうりょう)の悔あり」(昇りつめた龍は、結局は降だらなければならない という悔いがある 易経?)。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。萬のこと、さ きのつまりたるは、破れに近き道なり。 日暮れ途遠し。吾が生(しょう)既に蹉陀たり。(白居易 日暮道遠 吾生己蹉陀 陀は足偏 足を踏みそこなう、時機をうしなうさま) 諸縁を放下すべき時なり。 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。 身死して財残ることは、智者のせざる所なり。 萬のことは恃む(頼む 期待する)べからず。おろかなる人は、深く物を頼む故 に、うらみいかることあり。」