東京の60年(その1)

八幡武史(東京在住)

超閑散東京の八月十五日

これは私の拙句だが、夏になると蝉時雨とともに自然に頭に浮かんでくる。その日はかんかん照りだった。あのころは太陽がいつもぎらぎらと照っていた。どういうわけか雨の日の記憶がない。家の台所の脇にある八畳ほどの居間に近所の人たちが集り、神妙な顔で正午の放送に耳を集中していた。日頃気丈で『おっかない』女中の、オテルさんも静かに黙って聞いていた。四十代だった父が感極まって泣き出した。あの「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」という天皇の声だった。もちろん意味は分からず、父がなぜ突然泣き出したか分からなかった。ずっと後になって、あれが天皇による終戦の言葉だったと聞かされる。幼児の記憶というのは曖昧で、その後の人の話などで増幅され、明確なイメージをつくりあげるのだが、その日のことはよく覚えている。といっても放送の後、みんなはどうしたか、なにを食べたかなんかは記憶にない。その日以前のことも断片的にしか思い出せない。昭和二十年五月二十五日の空襲の時、私は五歳だった。眠りから醒め、庭の防空壕(シェルターですな)から出てくると、父母たちは消火活動で出払い、誰もいない街は我が家の一角を残し、まだ戦火でくすぶっていた。この光景が私の原点というと大げさか。それ以前のことでは、年配の人は覚えていると思うが、日本放送協会のラジオで、ハイケンスのセレナーデが流れる『戦地(戦線か)に贈る夕べ』という番組があった。ザーザーというノイズで「コッチラーハドイツカイガイホウソウキョクデース」というセリフが、なぜか記憶にある。「こちらはドイツ海外放送局」という意味だから、まだ日独伊三国同盟があって、戦局も日独に有利だった昭和十八年ごろのことだろう。私は三歳で、よく覚えていたと自分でも感心する。

焼け跡の少年たちといえば、かなり危険な遊びがあった。屋敷町だったので土蔵が焼け残り、裏に回ると大きな穴が開いて、中身は空っぽ。それに庭には石灯篭がいくつか残っていた。われわれの兄貴たちは、それを最初は小さく、だんだん大きく揺らし、最後は地響きたて、倒れる。今考えると、かなり危険で、下敷きにでもなったら死んでいただろう。それに屋敷の庭には棕櫚の木があって、これに火を点けると、あっという間に一本が燃えてしまう。

靖国神社はわれわれガキどもの遊び場だった。飯田橋、市谷、四谷と続く外堀を隔て、南側に靖国神社があった。出かけるのはちょっとした遠征気分。木の正門は端がこすれて、菊のご紋だけがやけに立派だった。われわれの目指すは神社裏の池や相撲場で、池にはフナやエビ、亀がいて、これらを八手網でとるのだ。遊就館は確か富国生命の本社が戦後しばらく使っていたと記憶する。付近には骨董品の鉄、青銅の大砲が重かったせいか、置き去りにされ、子どもたちの遊び道具だった。思い起こせば大過去の記憶として、やはり昭和十八年ごろ、日本が勝ち戦で、景気がよかったころ、親に連れられて靖国神社で戦場のジオラマを見た覚えがある。靖国神社が遊び場だったのは終戦直後のほんのわずかの時期だった。ひっそりとして参拝する人もなく、記憶ではぎらぎらの夏の日で蝉だけが景気よく鳴き、上記の句のイメージが浮かんでくる。

昭和二十二、三年ごろになると靖国神社では夏の例大祭が復活して、花火が打ち上げられ、著名人の描くぼんぼりが飾られ、サーカス、見世物小屋がどこからかでてきてインチキな夜店などで賑わい、どこに隠れていたのだろうかと思うほど人が出てきた。


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